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○同三年八月二日
当年分御用銅ノ内弐百七拾箇、去々月廿九日能代湊出帆仕り候由、先達て江戸エ申遣わし候。(下略
大坂廻銅の出帆記録は、『雑書』において右の如く僅かに寛保・延享期の一部にとどまる。この期間に限って
云えば、西海廻りは秋田領能代湊出帆に限られ野辺地湊の記載はない。東海廻りの仙台領石巻出船は、秋から冬
へかけての日本海沿岸に北西季節風の荒れ狂う季節のみに行われていたようにみえる。
厳冬期における鹿角街道は、積雪や風雪のため屡々交通が途絶え遭難者も珍しくない有様であった。宝暦一二
年(一七六二)一二月二七日、尾去沢銅山山先奈良平次郎と支配人森田屋六右衛門の重手代久兵衛、山方手代仁
左衛門の三人が、藩御勘定頭坂牛新五左衛門に呼ばれ出府しての帰途、松川辺にて大吹雪にあい平次郎、久兵衛
両人は殉職し仁左衛門は漸く銅山に帰り着いた。藩では平次郎、久兵衛の遺族に対し「旧臘爰元エ相詰め罷帰り
候節、御用物預かり遣わされ候処雪風強く通路難しく相成る砌に候得共、格別ノ御用向大切ニ存じ身命を顧ず罷
越し相果候儀ニ付」御手当として金一〇両を贈り、仁左衛門には「御用物モ相違無く山元エ持参候ニ付」御褒美
として同じく金一〇両を与えている。また同年の冬、銅山入用銭の運輸隊を戸田内権太夫組同心与左衛門が宰領
しての道中で、場所は定かではないが田山村人足共五人なて(雪崩)に打たれて果てるという惨事が起り、それ
ぞれ御手当銭五貫文宛おくられている(
『雑書』宝暦一二
年正月晦日条
)。