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花輪町が中野氏の知行支配町から代官支配となり、残らず引渡された経緯については『花輪町御代官所江引渡

花輪町が中野氏の知行支配町から代官支配となり、残らず引渡された経緯については『花輪町御代官所江引渡

候書留帳写』(

「花輪町誌編纂資

料第一号』所収

)に詳しい。

銅山が御手山として名実共に藩の直接経営となるに及び従来の銅山奉行は廃され、勘定頭の内から「御銅山御

用懸」が任命されることになり坂牛新五左衛門が抜擢された。この改革に当って老中(家老)八戸頼母、目付大

矢三右衛門はそれぞれ御銅山御用懸に仰付けられ、「御銅山御取次」に松田佐次右衛門、野辺地庄内、遠藤良助

が、「御銅山御物書」に柴内四郎作、名久井文六等が命ぜられた。同年一一月二五日には御留守居見習奥瀬伊右

衛門がこの度銅山を御手山に改めた旨を幕府へ届出るため急遽江戸へ登るよう申渡されている。「御銅山御支配

人」井上庄兵衛は「御手代」として藩に召抱えられ、花輪町中田屋長右衛門は「御銅山御用達」を仰付けられた。

また花輪町の円徳寺に対しては「右御山惣人数寺請証文只今迄右寺より差出し候間、此度御手山ニ仰付けられ候

一就き、只今迄ノ通り差出シ候様支配頭大泉寺を以て仰付けらる。右ニ付御山元より壱ケ年青銅五十疋宛両度下

以上

し置かれる」の旨寺社奉行より申渡しがあった

)。

「雑書』

銅山の御手山御用を仰付けられた坂牛新五左衛門は同年一一月三日銅山に登山し、翌四日山内一同へ御手山と

なった趣意や心得べき条々を一八項目にわたって厳しく申渡している。初めに尾去沢銅山は御手山となり以来は

御銅山」と唱えるべきこと。御銅山一件の取扱方を坂牛新五左衛門へお任せになったので、山内の者共はよく

その下知に随い出精相勤めること。その筋々に御用懸りの者を置かれ「万端直御取扱」となるのであるから、是

迄と同じに心得ることなく諸事心を用い相勤めること。御銅山は御用銅御定数七千箇仰付けられているが、出釦

銅働方は山師渡世の心得から至て相弛み心得違いの事柄も多くあった、其方共の不心得によって釦銅出不足とな