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一、薬師御山一、中長根御山一、観音御林

一、松林御山一、上茶臼館御山一、中野平御山

一、三ツ権現御山一、背坪沢御山狐平村一、狐平前平御山

一、彦右衛門林御山神田村一、ちくし森御山用野目村一、前平〓

用野目村一、前平御=

、伊坂御山一、〓

一、伊坂御山一、狐平御山、上大尺沢御山

一、さめ長根御山一、大平〓

、大平御山

一、鍋子石御山一、稲荷御山

右之通拙者共御預御山之内、此度南より西北通米代川限御銅山付御山ニ被仰付、右之通御立合之上御引渡申所相違無御座候。

右の村数は鹿角郡の南半、即ち花輪通の殆ど全域を占めている。この広範な地域が御銅山の燃料源として確保

されていた。

なお坂牛新五左衛門は、御側御用人御勝手御用人兼帯に進み「銅山用筋」とともに「公辺用向」「勝手向」に

敏腕を振るったが、明和六年一二月に至り平生我意を募らせ甚だ無調法な勤方として「家名身帯家屋敷家財共御

返上、八戸弥六郎え永ク御預け成らる者也」との処分を受けている。

薄銅処理に苦慮

尾去沢銅山が、南部屋八十治や森田屋六右衛門等請負稼行人の積年にわたる放漫な経営と

双廻銅の延滞によって、やむなく藩直営の体制に入らざるを得なかったのと全く同じ明

和二年(一七六五)に、秋田阿仁銅山が藩直営に行き詰って尾去沢の場合とは逆に請負稼行へ踏み切ったことな

と、正反対な対応ながら当時の銅山経営の多事多難さを思わせるものであった。いうまでもなくその背後には、

長崎貿易銅確保に懸命な幕府の強硬な統制策があった。

秣田屋六右衛門の出奔によって生じた廻銅定例高の未納分は宝暦一二年と明和元年分で二四万七、八〇〇斤、

〓二年分七三万一、五五三斤で合計九七万九、三五三斤にも達していた。明和二年一二月藩は長崎奉行石谷備後守