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の許へ、産銅減退を理由に定例廻銅高七〇万斤を五〇万斤に減ぜられ度き旨を願い出た。しかしこの減銅願は直

ちに却下され、逆にこれ迄累年の滞銅の責任を請負人に転嫁する藩の態度は心得難いとして、滞銅の理由と延浩

分補〓廻銅高を月割に書上げ至急提出すべきことを厳命された。翌三年正月回答遅延し再三の督促を受けた藩は、

森田屋六右衛門の銅会所からの前借金は銅代をもって返納すること、宝暦五年以来定例銅に加算された三万斤は

免除されたいこと、明四年より五カ年間は定例高七〇万斤を六〇万斤に減ぜられ、かつ六右衛門の滞銅高は山元

有銅三八万九、〇〇〇斤余にとどめ残り五九万斤余の弁償は免除されたいことを申し出た。これに対し長崎奉行

は、是迄山師に任せ置いて、吟味も不行届なるに今更銅が無いなどとは勝手な云い分で表立った理由にならない

と叱責し、当年の定例銅七三万斤は勿論未進分九七万九、〇〇〇斤余を合わせ、一七〇万斤余残らず当年中に大

坂へ皆着させるよう厳達し、依然強硬な態度を崩さなかった。さらに定例銅並びに滞銅の廻送月割高の提出を迫

られながら延引してきた藩は五月九日に至り、定例銅は五カ年間を六三万斤に減銅し六年目より従前通りの七〇

万斤とすること、滞銅は一五カ年の年賦納付とすることの主旨で願書を差し出した。六月一三日長崎奉行は、定

例銅の五カ年間六三万斤六年目より七〇万斤廻銅は聞届けるとした上で、滞銅皆済の後は増銅三万斤を加え七三

万斤の定例高とすること、滞銅は山元有銅三八万九、〇〇〇斤余を速かに廻銅し、残り五八万一、〇〇〇斤余は十

カ年賦弁済とする旨を申し渡した。藩もこれを応諾し、直営移行後の最難関であった森田屋六右衛門事件の収拾

が漸く端緒をつかむに至った。

明和七年、定例銅減額六三万斤の期限が切れるに当り、藩は六月一七日大幅な減銅願を長崎奉行に提出した。

百年来の古山であるため「掘末遠丁深敷」の状態で出不足となり、その上寛保三年以来三度にわたる値下げによ