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り山元仕入値段に引合わず、多分の償いがなければ存続致し兼ねる有様である。これ以上の出銅増方は勿論、明
年からの御用銅の高もなかなか納め難く、かつ前後の考えもなく稼方のみを厳しく督励して掘尽すことになった
のでは将来の御用銅にも差支える。明年からの御用銅は格別のお取計いをもって一カ年三五万斤ずつとお定め下
され度く、滞銅年賦中は五万八、九〇〇斤を加え都合四〇万八、九〇〇斤ずつ、毎年四月より一二月上旬を限り銅
座へ納めるように致し度い、との内容である。これに対し奉行石谷備後守は、減銅によって仕入方も減ずるとは
限るまい、むしろ御用銅高が多ければかえって仕入繰合せが宜しくなる筈であろう。寛保以来の値下げによって
引合わないというが、明和二年以前の藩は請負人から運上金を取上げてきたではないか。藩直営になって又々多
額の減銅を申出るのは心得難く、察するところ御用銅高を減じその余銅を利得の多い地売銅に廻そうとしている
ためであろう、と反駁し願書を差戻した。しかし一二月二八日に至ってようやく減銅高六三万斤を五カ年延長す
る旨の申渡しがあった。
また翌八年長崎奉行から、藩の陳情による定例銅の値上げと手当交付は聞届け難いとしながらも、その年の御
用銅皆済があれば翌年銅代のうち銀三〇〇貫匁宛前年に貸渡すとの申渡しがあった。即ちこの年一二月に廻銅高
六三万斤の代銀八七八貫七二四匁のうち、三〇〇貫匁の前渡金が大坂銅座から交付されている。このように、御
用銅数量の確保を図る幕府当局長崎奉行と、いくらかでも滞銅・廻銅高の減額や後に述べる如く手当金交付、地
売銅の増量をめざす藩御銅山懸り役人との間に、虚々実々の応酬が間断なく繰返されることとなった。
銅山御用懸、続々登山
銅山の監督に当たる藩の中枢として家老、御用人、御勘定頭などの中にそれぞれ御
銅山御用懸が置かれていたが、この時期頻繁に登山し山元諸役人を督励している。