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り七万斤を増し八〇万斤と相成り、もしこの御為登方の斤数を減ずることになれば、折角の値段増し同様のお手
当銀にも支障を招き兼ねない。今後の廻銅高は右の斤数に固定されることになるから、吹減の分も加え出鉗に
層努めるべきこと。また鋪内普請の切延間数が延びていないことは心得難いので、山に堅和の差があるにしても
普請延方の進捗を図るように吟味すること、という趣旨であった。
安永五年三月、御勘定頭松田佐次右衛門が登山し、当年の廻銅一三一万斤程となるので、御銅山七〇万斤、白
根御山二〇万斤、不老倉御山一〇万斤の予定では甚だ不足となる。御銅山八五万斤、白根御山二五万斤、不老合
二〇万斤となるよう出鉗を進め、釦拵方、釦閑場、床屋等にもその増産に精を出すようにと強く指示を与えたが、
この年尾去沢の産銅は五三万斤にとどまる結果に終った。
以上は安永期前半、藩の御銅山御用懸御勘定頭らが続々登山し、出銅増加の督励鞭達に当った模様を阿部家文
書『御銅山記』によってみたのであるが、その申渡の中にも散見する地売銅や手当銀の交付について若干説明を
加えたい。安永元年(一七七二)六月、藩は長坂、狼倉、水沢三銅山の古間歩取明けによる出銅一〇万斤を定例
銅より割高の地売銅へ廻すことを願出た。長崎奉行は、先年出銅不足を理由に定例銅の減銅や銅代前借銀を許さ
れたのだから、その出銅は定例銅に差加えるのが当然であると反発し、数次にわたる折衝を経て同年一二月、減
銅延長期限の切れる安永五年から七三万斤の定例高に戻すことを条件に、古間歩出銅の一〇万斤は別扱いに地売
銅とすることを許された。御用銅の値段が一〇〇斤当り銀一三九匁四分八厘であるのに比し、銅座売渡しの地売
銅は一〇〇斤当り一六三匁であった。翌二年一〇月藩は、今後もなお定例銅のほかに相当余分の出銅がある見込
なので、その分は残らず地売銅として買上げられ度い旨を願出た。御用銅の値段では全く引合わず多額の補償が