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必要であることを理由としたので、幕府は御用銅買上の希望値段を反問してきた。藩では採算ぎりぎりとして
〇〇斤につき一〇匁の値増を望んだが、幕府は出増銅の値段を別段扱いにすることや前渡銀の増額を提案して応
酬し、ようやく安永三年五月に至り、定例銅七三万斤に出増銅四〇万斤を加えた一一三万斤に対し、七匁の値増
に相当する八〇貫匁の手当銀を交付することで結着をみた。次いで翌四年藩は山元の雪害復旧を理由に、銅代三
○〇貫匁の前渡銀を向う五カ年間八〇〇貫匁に増額するよう願出て、結局三〇〇貫匁を増し六〇〇貫匁の前渡銀
をも許された。
しかし尾去沢において安永二年八四万四、〇〇〇斤余、翌三年九一万二、〇〇〇斤余と好況を示した出銅が、同
四年六七万斤余、同五年五三万斤余と下降するに従い、再び藩は深刻な苦境に立つこととなった。『雑書』安永
五年五月二七日条にみえる御側御用人御銅山御用懸り奥瀬伊右衛門への申渡には「御銅山御前借壱万両、大坂表
弐万両御借金ニ〆三万両候得共、壱万四、五千両ハ御銅山御入方ニ相成、残る所ハ御当用御繰合相成候儀故、右
御当用御借金共ニ引請ケ御益ノ所を以て御借金段々相済み候様仕る可き旨仰出さる」とあって、その実情の一端
を窺わせている。
不老倉銅山の取立
介老倉銅山は天和年中の発見といわれてきたが、前述の通り狼倉銅山として『雑書』に
は既に延宝期における他領出銅の記録がみえる。同山にかかわる青山庄左衛門書上の元
禄一〇年人数目録もよく知られているが、その後寛保二年(一七四二)頃をもって休山したと伝えられる。『
山開立年限付』には明和二年(一七六五)御手山として再生したとも安永四年(一七七五)三月一五日より御手
山になったともあり、この御手山以来不老倉銅山と改められた由である。安永元年盛岡藩が長坂、狼倉、水沢