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について願出ている。即ち地盛沢鉛山をこの度新規に取立て鉛一〇箇を出したので、一箇は差上げ四箇は御代銭
をいただき五箇は地他拂をお許しいただき度い。また銅鉗も出たので吹立の上は一六貫目に付銀一〇〇目の割で
買上げ下され度い。これに対し藩では御銅山懸御勘定頭らが相談し、銅鉗は不老倉休山間もないこと故買上げず、
鉛についてのみ働方を仰付け他拂御免にした、という。後、不老倉の消息は『雑書』に暫く絶えている。
白根銅山は寛政六年四月朔日を期し、毛馬内通御代官所御境附白根御山として御境方へ引渡しとなり、御山境
の四方へ杭を打ったという(
勝又家文書
『御境御用留
○然し表面上はともかく、内実は休山後も金山働きの者を山内に留め
置き稼業を継続させていた。寛政九年一一月「白根住居者共」が白根山先岩尾治五右衛門の横暴を告発するため
に認めた願書が残っている(
山本家
又書
)。その冒頭に「此度白根住居ノ者共ニ御内々ニて働方仰付けられ、運上金弐
拾五両差上げ申す可き旨仰付けられ、吹金壱匁ニ付弐貫文宛御買上げ仰付けられ、扶持米井ニ諸品等ノ義ハ銘々
相調申す可き段仰付けられ有難き仕合せニ存じ奉り候」と述べ、以下治五右衛門が定めより安く吹金一匁に付一
貫五〇〇文で強制買上げをしていることや、不正の秤で吹金目方を軽くしていること、備米を隠匿しているこ
となどを訴えている。さらに享和二年(一八〇二)三月白根金山惣小屋人数の「乍恐口上書を以奉願上候事」
「白根談叢』所
収岩尾家史料
)によると、去月四日御銅山方工藤嘉平太、川口、岩尾両山先が廻山され、金山敷内をこれ迄と違
い厳重に封印し、永年住居の私共に一五日限り惣小屋人数何方なりとも立退く様に仰付けられた。私共は凡そ二
〇〇年余り国恩有難く頂載し住い続けてきたので、先祖や親共の墓を捨置いて立退くは不孝の至り且つ今後の心
当りもない。ついてはこのまま渡世を続け、惣小屋人数より御礼金一カ月吹金一〇匁一カ年一二〇匁を上納した
(
い。また一カ年中金二〇〇匁の御買上げを仰付けられ度く、直段はこれ迄一匁二貫文宛のところ一〇〇文引下げ