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ケ年平均棹銅三十七万斤余廻銅相当り申候」「是迄山元ニて荒銅吹立て候節捨からみと申す品夥敷之れ有り(略

右を製分仕り吹立候ハゝ一ケ年五六万斤程ハ正銅も出来仕る可きと存し奉り候」その分は地売銅として買上げ下

されば「山方一統御救ニも相成り旦本山丈夫ノ稼出来仕り候」としている。この願いは首尾よく許可された。

『雑書』文化九年四月一四日条には、御用銅吹立は宝暦年中銭屋四郎兵衛へ申付けてから追々交替し、現在鎰屋

忠蔵へ命じているので捨からみの地廻の分も一手に忠蔵へ吹方仕らせ度いと願出たことを記している。

文化一一年八月、藩は又々廻銅後れ分の免除、買上げ直増、再興資金の拝借を趣旨とする陳情をこころみた。

遠丁深敷による敷々普請や水抜の困難、諸色高直、海失銅の廃れなどをあげた上で、近年御定高未納の分、都合

八一万六、五〇〇斤余は只今の模様からみて償いの手段もないので免除していただきたいこと、年々の御手当銀

は買上げ直段に割ってみて銅一〇〇斤に付一六七匁余に当り、山元の稼方仕入等に到底引合わない。不足の分大

膳太夫勝手元から補ってきたが連年蝦夷地御用の物入り多く届き兼ねるようになった。大坂商人からの借財も嵩

み、その上去年領内一六万石の損毛、廻銅船二艘の難破で、一、八〇〇両余の損失と続いた。よって向後銅一〇

〇斤に付三五匁宛の直増を願いたい。将来とも御用銅を欠かざるため新たに出銅見込場所の普請や水替の工夫を

施し度く、御手当として一カ年金三、〇〇〇両宛五カ年継続で拝借をお許しいただきたいとの内容である。一二

月に至り幕府の回答として、勘定奉行肥田豊後守より戌年より一年金二、〇〇〇両宛五カ年の間拝借、六カ年目

より一〇カ年賦返納と心得るよう云渡しがあったが、廻銅後れ分の棄捐と定例銅直増の沙汰は遂になかった。

天明からこのかた寛政、享和、文化と永年に亘る尾去沢銅山の出銅不足は、殆ど慢性的な傾向を呈しながら経

過した。この間に藩は幕府への陳情を繰返し、不充分とはいえ銅代前渡銀、手当銀の交付、再興資金の拝借等の