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高任の壮大な銅山再盛構想のなかで「尾去沢の外尚二三箇所の良山御取開」としているのは具体的にどの山々
であったのだろうか。近代鉱山学の新知識を会得した彼の目には数百年来の仕法をそのまま踏襲している銅山の
姿は誠に歯痒いものとして写っていたに相違ない。高任は慶應二年二月再び藩に次のように献議した。「尾去沢
御銅山西洋の仕法にて広大御取行成らせられ候はゝ、年々五百万斤余の銅出来相成申す可き見込申上置き候処」、
創業以来二〇〇年間因循の仕来りを俄に御一新ということは不可能であろう。旧来の仕法では鉱石中に含む精銅
の三分の一程度しか吹取れず、その余は全く捨銭中に残ってしまう。「寛文六年草創以来年々五十万斤宛と見積
り当年迄都合二百ケ年中の出高一億万斤に御座候得ば、尚五千万斤の精銅は右捨銭中に相残り居申す可き義と存
し奉り候。右五千万斤の代価当節の相場にては金六百万両に御座候。右程の大金を尾去沢地下に投捨てられ候儀
歎息の至に存し奉り候」。明年より金一万両で反射炉五座の熔銅所を築くと、明後年より年々大図一万両の元
から二五万斤宛は相違なく出銅しその代金三万両、その内元金一万両を差引き二万両は御益潤となる。五年間の
益金一〇万両の内九万両を以て反射炉増築経費に充てると盛大な熔銅所がすべて落成する。七カ年私に委任して
もらえば必ず実現し、八年目より年々二〇〇万斤宛の御益潤をすべて別段に御勝手へお納めできる、という提言
を盛つている。
大島高任は安政四年(一八五七)釜石の大橋に本邦初の洋式高炉を完成、大橋高炉の最初の出鉄をみた一二日
一日はわが国鉄の記念日に制定されている。この近代製鉄業の始祖である彼はまた、鹿角における十輪田銀山、
小坂鉱山近代化の祖としても広く知られているが、小坂銀山の高炉築造に着手する以前、尾去沢銅山に強い開発
恵欲を燃やしていたことに注意すべきである。前出『あつめ草』の慶應二年(一八六六)四月に大島高任登山の