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記事がある。四月十九日「同日御勘定奉行加両鹿角御用中御銅山御用掛大嶋惣左衛門、金銀銅鉛山見分御用の為

先達て毛馬内通小坂銀山え御出ノ処、細地を見分候テ昨日柴内御泊、今日花輪御昼ニて今日御登山成られ候」。

田郡、元山、赤沢を廻山して実情を視察し、同二四日銅山を出発して真金山へ向っている。

なお『あつめ草』には、三ツ矢沢上新田の南、吉沢で石炭の採掘されていたことが記されている。慶應三年四

月五日の項に「近年御取開成され候吉沢御山より石炭出る、尤も銑ノ内弐間程之れ有る由、右様ノ大直り洋州ニ

も之れ無しト申す事、右石炭ニて問吹いたし候処卸切宜しく鋏ハ殊ニよし、本燃しも木の上へかけ候て試燃いた

し、追て御吹方ニ相成候ハゝ如何之れ有る哉」とみえるが、殆ど実用化はされなかった模様である。

慶應二年、幕府は長年に亘った中国・オランダに対する長崎貿易銅を打切った。盛岡藩にとってはようやく御

用銅供出という桎梏から脱し、尾去沢銅を名実共に藩の国産物として有利に運用できる時機が到来した。しかし

それは反面、藩債弁済や窮迫した金繰の埋合せに産銅を充てようとし、山元に対しては寧ろ幕府御用銅以上に過

大な大坂廻銅を要請する結果ともなった。『あつめ草』慶應三年二月二〇日の記事に、御勘定奉行より御用状が

来、御支配人、御山先はじめ諸主役が御役屋に集められた。その趣は「当夘年御登せ御用銅百五六拾万斤御登せ

成され候御達」であり、「下ノ関通船相成兼ね候得ハ、西海大廻りして長崎におゐて異国形ノ和船雇い、下し成

され候間壱艘え五六拾万斤積入ニ相成候。右船正月より追々差下し候間、野辺地湊ニおゐて遅滞之れ無き様積渡

し申す可きノ旨仰遣わされ候。依ていつれも出精御銅高ニ相至らせ申す可き旨御達」であった。またその出銅計

予定

画を差出せというので、翌二一日御山先御山方共に参り一月中迄に一二六万斤出銅ノ積

を差上げてきた、

数

と記されている。この年の出銅も、すこぶる好調であった。