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慶應四年三月、藩は盛岡の豪商鍵屋村井茂兵衛に、産銅にかかわる一切の売捌方を請負わせることとした。そ

れは勘定奉行から茂兵衛に与えた議定書に示すように、「京坂御要用井に御銅山御入用金」を「御銅売捌方」の

権限と引換えに鍵屋が「御用弁」即ち負担するということであった。鍵屋の仕送金によって山元は活気を取戻し、

一月から七月までの産銅五四万斤と順調な進捗ぶりをみせている。

しかし同年閏四月奥羽諸藩の重臣が白石において盟約し、やがて六月下旬九条鎮撫総督が盛岡を去って秋田に

転じ、七月秋田藩が奥羽同盟に背反するに及んで、鹿角の山野も大きく戦雲に包まれた。八、九月の四〇日間に

わたる鹿角口の戦闘は盛岡藩の降服謝罪という結末に終り、御銅山もその戦後処理に緊張の日々を送らねばなら

なかった。この年一一月に至り、藩は莫大な債務や軍事費処理の必要に迫られ、鍵屋茂兵衛に対し尾去沢銅山経

営の一切を御礼金一カ年一万三、〇〇〇両上納の条件で三カ年間の請負を命じた。その遣証文の一項に「御銅山

其方え御任せ成られ候。付ては商法御会所拝借金弐万五千両、諸国御手宛御用達の内拝借金六千両、都合三万千

両其方にて上納申す可き事」としているが、鍵屋の銅山引請額は金一二万四、八〇〇両であったともいわれる。

なおその添証文の条項の一部には

一、御銅御登せ方の儀は野辺地湊、新山御役所両所え相廻し申す可く、尤右諸入用の儀は差出申す可き事。

一、御船印の儀は、出帆船々え紺地九曜御印御下け渡し成られ候事

一、海上難破船等有之節は、浦方諸始末是迄の通御取扱成され候事。但諸入用の儀は差出申す可き事

一、御銅山御入用米の儀は、鹿角両御蔵より千三百駄御払、両通御買米の儀は年々豊凶に寄是迄の通仰付けられ候事。

但代金の儀は上納致す可き事。