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大坂廻銅のルート

ほぼ時代を、藩営に移った明和以降に限りながら、尾去沢御用銅にかかわる大坂廻銅の

経路について述べる。

尾去沢銅山は既に秋田阿仁、伊予別子・立川とともにわが国三大銅山であり、長崎貿易御用銅の内宝暦四年か

ら七三万斤、寛政六年から五三万斤を、幕府割当の定例銅として大坂吹屋へ廻送しなければならなかった。吹屋

はこの尾去沢銅を間吹によって再精し、棹銅に鋳て長崎へ送った。従って山元で生産される荒銅は、殆ど残らず

大坂へ向けて搬出されることとなり、これを「為御登銅」と称した。

内田家文書・『日

『御銅山記』(

本鉱業史料』所収

)に、銅の箇方や差札、その駄賃等について次の書留がある。

一、為御登銅壱箇ニ付、正味拾弐貫目、風袋七百目、都合拾弐貫七百目之定目也。然し乍ら駅々海上数百里之事故自然

と目不足ニも相成候てハ、遙々為御登ニ相成候処大坂ニ於て御差支ニも相成候ニ付、弐百目程之御有余を以て為御登

ニ相成る。尤以前秋田能代廻しニて為御登ニ成され候節ハ、正味拾六貫目也。但野辺地廻し共已前拾六貫目入之処難

処附配り迷惑ニ付、御百姓共願ニ依り以来拾弐貫目入ニ相成ル。

一、御用銅箇之内え紙札ニて大小何枚、小銅幾ツ何某と相認め候事。但此何某ハ銅蔵主役之者名面也

一、御用銅箇之外え、差札は板ニして左之通り認ル。

長崎廻銅支配人井上庄兵街

長崎廻銅支配人井上庄兵衛

廻銅支配人井上庄兵衛

〓奥州南部尾去沢銅山銅正味拾弐貫目入

〓奥州南部尾去沢銅山銅正味拾弐貫目入

御用皆掛拾弐貫七百目

御用皆掛拾弐貫七百目

皆掛拾弐貫七百目

〓人升〓

〓乃胸入

皆月

右ハ板札、長壱尺壱寸程、幅弐寸三分程、厚サ三分程