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現様家康が日蔭沢金山で急難を避け、山例箇條書を下されたとする故事を引き、答書を提出している。
翌年五月、さらに役向から御山法之制についての尋ねがあり「御尋ニ付口上之覚」が認められている。初め云
正年中神君急難の故事とともに金掘の関所通行や御山内駈込み者の囲まい扱いの例などをあげ、御山法は全国諸
山一般のことで他山との関係からも破ることはできない。「公事方御手先を以御召捕成られ候とか御引付ニ相成
事ニ御座候てハ、山中働之者一同友子朋輩之堅交を以、働を止メ見舞と申又ハ附添参候事等制し候様無之ハ金掘
共之礼儀ニ御座候」。かつ「異乱を招クニ相當り申候町家ニて乱を起し候てハ諸役立相滞り、是又御勝手御差支
之御事」ともなる。山中へ御手先の者を踏込ませ御召捕成さる儀は、御銅山草創以来伝聞したこともない。去春
庄八を御官所へ御渡しした時、迷惑の筋が無いとしてとり宥め「手軽ニ心得させ御銅山付御町方エ送遣し候処、
山中之者共速ニ聞伝え、見舞として大勢市中エ罷下り殊之外出鉗之御差支、今に後レ銅ニ相成恐入罷在候」と述
べている。
また「御山法ケ條之内ニも御吟味中其者万一駈逃れ、鍜冶屋エ逃込み候得ハ、寺入之姿ニ相成召捕人踏込申さ
ざる法ニ御座候」、そのため本番役所の近くに鍜冶屋を建てている。「尤當時ハ御山内地方之者斗之様ニ相見得候
得共、折々金掘浪人共渡道を立寄、出入繁ク御座候内働入等も申出、年若キ者ハ養子入間々在之候得ハ、諸山之
事共相互知らせ合候者ニ御座候」とし、金掘浪人の出入や養子入のこと等も加えている。
同年七月に至って、再び「口上之覚」が認められている。前三通の口上書とほぼ同じ内容ながら、さらに古来
よりの御山法を強調し「他国より法を犯し此御山エ入込候者有之候ても、決して相出さざる法ニ御座候。又は出
方よりも同様他山エ駈込候得ハ如何様手を廻し候ても囲まひ差出申さず候」などとしている。「就てハ是迄之御