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仕法ニ相違仕り候儀御座候てハ、渡働之者も在之故、諸山共友子朋輩之道を以、此御山ニて幾通も願出相叶わざ

る義ハ、公義御山所迄も押出し申す可き風儀ニ御座候間」、庄八の件は此度御山法の立つ様にとの御趣意を承わ

り有難き仕合せである。きっと御山外へ出し御引渡も同様になるよう取計いたい、と述べているので、年余に乃

びようやく解決をみたのであろう。

以上の文から、いわゆる御山法を基にして山中働の者および友子、浪人たちの交際が、礼儀・義信といった精

神的紐帯によって固く結ばれ、山内が独得な雰囲気を保つ社会であったことを、随所に続みとることができる。

周辺農村とのかかわり

銅山の山内居住者の生活は、周辺の農村と関わりなく、殆ど隔離された状況の中で

宮まれていた。然し藩の銅山経営という政策的意味では、広範囲にわたる御銅山附

御山・御林が設定され、農民達は義務的ともいえる形で大量の木炭・春木など生産消費材の供給を負担させられ

ていた。また銅山入用米

飯用米井造

酒仕込米等

の多くは鹿角両通全域より御買米或いは別段米として殆ど強制的に供出さ

せられ、味噌煮用の大豆も同様で、その他郡内に求められる生産・生活用品も多かった。

川口冨教『金銀銅鉛鉄山仕法記』(

年代不詳・岩手

県立図書館蔵

)に、燈竹は「花輪より下村井毛馬内在々より剪出ル、三矢新

田よりも生竹出ル」、炭は「花輪上村通り田山近在、熊沢より出ル」、笹板は「年中買方、出所毛馬内、大湯方よ

り出ル」と記されている。その別項「諸入方年中大概」の中にもその出所を、竹は「出所毛馬内御領柴内山小枝

指小平、亦花輪御領三矢沢より出ル」、扣木は「三矢沢より出ル」、大炭は「花輪御領熊沢山、夜明嶋、襞部山、

谷内山、田山川目、毛馬内御領大湯山、鳥越村、藤原村ノ辺より出る也」、小炭は「両鹿角八方より出ル」とし、

春木は「熊沢、嚴部、夜明嶋、田山より兄川辺迄ニ出ル」と書き加えている。