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嘉永元年の書上である『乍恐御答奉申上候事』からは、およそ次のことを抜き出すことができる。
、上莚銅莚太縄真縄大笊小笊御買入之儀ハ花輪町御用達井上長左衛門より兼て村々え注文致させ置、十日
より翌年三四月頃迄月々三度宛、主役壱人罷越御立合ニて(略)吟味之上買入(略)
、揚笊羽色笊山色笊御買入之義ハ前々より秋田領南比内郡中野村ト申所え御前貸成遣わされ(略)。
、〓鉢鉛板請方之儀ハ毛馬内通鳥越村より持参御買入、右御請之節ハ主役手伝之内罷出御立合を得(略)。
、明油費付蝋燭白糸麻糸等御買入之儀ハ当時花輪町東屋新蔵より上納仰付けられ請取候節(略)。
銅山周辺の村々のうち、御銅山附として最も銅山と深い繋がりをもっていたのは、尾去村・西道口村・蟹沢村
りいわゆる「尾去三ケ村」であった。山内諸普請や釦下げの人足として屡々集められ、なお人員の不足な場合は
化軒田・曲沢・鍋倉・三ツ矢沢各村、さらには松館・石鳥谷および土深井・大欠・松山の各村へと範囲が拡がっ
た。その状況は、銅山日拂主役阿部恭助の『あつめ草』に詳しく書留められている。
)文久三年二月十六日床屋御普請ニて人足手配難渋ニ付、尾去三ケ村より相雇ニて壱人ニ付日雇代百廿四文いたし、
弐飯下され、濁酒弐盃宛下し置かれる。
)同年二月十七日田郡元山御模様宜しく相成候ニ付、(鉗下げ)牛馬通用難しく成られ難渋之場合ニて、尾去一
ケ村井花軒田曲沢鍋倉三ツ矢沢共々残らず相頼み、弐度背負ニ致させ、昼壱飯濁酒壱盃ツゝ下し置き候
)同年八月十日釦下け方難渋ニ付尾去三ケ村より人足弐拾五人程御頼成られ、昼一賄御酒下し置かれ候。
)同年八月十六日床屋真吹仮床御建替候ニ付大欠、松山村より人足御雇成られ壱人ニ付日雇百文昼御賄濁酒壱盃
宛下し置かれ候。炭方大炭蔵も未だ出来栄ニ至兼石鳥屋、松館、尾去三ケ村より昨日迄相雇相詰申候。
○此節田郡ケ成御模様宜ニ候得共釦下け方難渋ニ付、在方稲苅盛ニて甚迷惑ニも有之可く候得共、尾去三ケ村え人足御