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頼合成られ候て、廿九日卅日両日相詰させ昼一飯濁酒壱盃も両度下され壱人ニ付壱升も背負下げさせ候。
文久四年三月十五日此節田郡御模様弥宜候て(略)日々鉗下ケ方難渋ニ付花輪御代官処へ御人足御頼合成られ候
(略)御村割参り人数七百二拾六人申来られ候。此節仕付盛之事故来廿七日より後ニてハ相請兼候趣(略)
○同年九月二日
同年九月二日釦下げ弥難渋ニ付在方苅ものニ取付候得共(略)三日大里村より弐拾人程参り、且秋田領別処え
頼遣し候処是も三四両日に百人遣呉候約定ニて三日ニ四拾四人来り候。
右のような例は外にも数多く摘出することができる。
人夫の動員のみならず、牛馬の雇入も周辺農村に及び、「此節真木附上必至之難渋ニ付大炭附牛之内、柴内村
長治雇牛三人前昨今相雇真木附けさせ候」
慶応二年五
月三日項
)、「真木附上方尾去三ケ村斗ニて當節燃込高殊ニは三ツ燃
之ため迚も取続兼候ニ付、花輪通御支配処之内湯瀬田山熊沢通相除キ永田下り神田高屋土深井村迄一ケ月三度宛
附上呉候様、御山奉行川口勇治廻村いたし御頼合成下され候」
同年五月
十五日項
。その翌一六日には「真木附牛七月中
相附けさせ申度ニ付」長内忠兵衛二人前一三疋、小平村勇治一人前五疋など四一疋を雇ったという記事がみえる。
一人前はいわゆる「一はずな」で牛方一人が追う牛の群のこと、普通「一はずな」七匹といわれるが、この記事
には一人前四疋、五疋、六疋、八疋とその数は牛方によってまちまちである。
なお鹿角の銅山における鉱毒水等の公害関係をとりあげた記述はごく稀で、管見のうちではせいぜい小川に小
魚が棲まないといった類いのものである。筆者がかつて小平村の古老から聞いたところでは、同地区には古くか
り「東の山の鉱山が盛ると、稲が枯れてケカチになる」という云伝えがあるという。ある年その東の鉱山が隆盛
に向い、役所や多くの鉱夫長屋が建てられた。村人達は寄合の結果、大挙してこれを襲い役所その他の施設を打