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『系胤譜考』藤田多左衛門の譜によると、多左衛門は慶安四年(一六五一)重直により知行二〇〇石で召抱え

つれ、内一四三石余を鹿角郡柴内村に与えられた。その知行所百姓高書には、ちいら

現在の地

羅野か

)、中屋敷、川原

町、十日市、高はけなどの地名が見える。柴内村は中世における有力国人柴内氏の経営による所で、以上の地名

はいずれも柴内氏居館の北側から東側にかけて広がる場所である。その内に川原町とともに十日市の地名を見出

せることは、中世において有力国人の館(城)下に定期市の開かれていた証左であるように思えてならない。

また村のなかに町地名の残っている例も、いくつか数えることができる。毛馬内の古館は毛馬内氏の居館で、

慶長期(

一五九六

〓)に廃城となっているが、その西側館下の集落に西町の名をとどめている。一ツ森館は小枝指

の東側舌状台地一円を占める広壮な構えをみせ、おそらく小枝指氏の古館と思われるが、その北側の低地に町端

の字名を残している。花輪下夕町は、黒土館の館下にあることから下夕町と称されたといわれる。このように考

えると柴内村の東町・西町も、柴内館の東西両側に広がり城(館)下町的な色あいが濃い。また三ケ田の荒町は

語源は新(あら)町であろうから、その起こりに普通の新田集落と違ったものを感じとることができる。谷内村

の上ミ手の萱町も、古い遺構をもつ高館の裾近くに広がっている。

鹿角地方の方言では、マチは市の意味に用いる。マチの日は市日のことであり、マチが立つは市立てのこと、

市日へ買物に行くことをマチ使いという。従って近世における町地名には人家の密集する所という意味のほかに、

ある時期に市立てのおこなわれていた場所という印象が強い。前記の町地名は、市地名と同じくいずれも中世の

館の館下につらなり、その館主の多くは当時の有力国人であることを考慮すれば、鹿角における市の起源は、必

ずしも近世のみにあるのではなく、中世に遡り得る可能性を秘めたものもあると思われる。