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その例として大里市のことを挙げたい。大里は、中世においておそらく花輪をこえる郡内第一の村落であった。

安保氏の伝承によると惣領が大里村、二男が花輪村、三男が柴内村を領したとされ、建武新政期に鹿角国代とし

て活躍した成田小二郎左衛門尉頼時も居館を大里に定めた。戦国期には、四五〇軒以上の民家があったと伝えら

れている。大里について盛岡藩『雑書』に初めてみえるのは寛永二一年(一六四四)五月四日条で、「熊皮大小

九枚、鹿角大里御代官四戸甚兵衛、欠端黒介献之」とあり、大里代官の存在さえ窺わせている。次いで翌正保一

年(一六四五)三月九日条に大里大火の記事が載る。

一、鹿角之内大里町家弐拾軒程、當月五日ニ焼失ノ由、御代官四戸甚兵衛以小枝指権兵衛を披露

ときわめて簡単な内容だが、一度の火災で二〇軒程も焼けたとあるから、かなり家並みが混んでいる状態であっ

たことが知られる。さらに注目されるのは「大里町」と表現してある点で、この時期に町とよばれている例はあ

まり多くない。

また大里が花輪の南に隣接し、その間が僅かに一里二丁にすぎないのに街道の駅場としての位置を保ち続け、

元禄一六年(一七〇三)の駄賃高札が建てられ、藩政後期にも一ト月の内上一五日は小豆沢の馬継、下一五日は

大里の馬継と二分されながら、依然として交通の要所とされたのは、中世以来の大村としてその余影を残してい

たからに外ならないと考えられる。『雑書』において鹿角の市立および市札の例が初めて掲げられるのは、大甲

町にかかわる天和三年(一六八三)の次の記事である。

一、花輪之内大里村新町相立申度由、百性とも訴訟仕り候、花輪市ニ構ニも不成ニは可被仰付候、依之大里町並よく