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るが、これに先だち藩は鹿角の道橋普請や夫伝馬改めを鬼柳蔵人に命じ、御錆衆

鉄砲

)二五人を召連れること

城

同心

とその扶持方に大湯・花輪御蔵米を充てることを指示している。藩政の初頭から花輪に藩米収納の御蔵が設置さ

れていた。

見永二一年と推定される年代に、花輪は城代大光寺氏から二人制城代の支配に替わった(一

市史第二巻上・第

一章第二節参照

)。城

代はそれぞれ三〇人の同心を預かり、駐屯させている。『雑書』同年九月二二日条に「鹿角の内花輪谷地田町よ

り廿日丑刻火事出来、家数弐拾四間、大町家数拾壱間、都合三拾五間火失之由」の記事がみえる。同じく正保三

年(一六四六)八月「花輪於沢口町与惣右衛門家ニ忍入、帷子ヲ盗候者」を討留めたともあるので、当時南館下

には人家が集まっていたかも知れない。また慶安元年(一六四八)一二月二四日丑の刻、谷地田町嘉兵衛宅から

出火し家数四六軒を焼亡したことも記されている。神明社別当家『手鏡記録書』一

武石

氏蔵

)に、花輪町三大火事の

つとして「承應二癸巳年四月二十三日六日町大火」とあることと相まって、一七世紀前半においてかな

り網密な市街地を形成していたことが知られる。『雑書』正保元年一〇月九日条に、比内から欠落した吉左衛門

という者が花輪の町で「いさば物」を買って戻ったとあるのが、商業関係の初見記事の一つである。

既に花輪が郡内の中心的な在町に発達していたことの証左として、承應元年(一六五二)藩は南部領内におけ

る諸品の売買は銀子を用いることとして、砂金、吹金などの両替を命じた時に「御家中所々銀遣ニ被仰付候ニ付、

両替之品々書付、花巻、郡山、久慈、両閉伊、八戸、三戸、花輪、右八ケ所へ被遣、来十五日より銀遣可申由被

仰遣」(

『雑書』同年

一月九日冬

とし、花輪に両替屋を設け極印を打った銀子に替えさせている。また同三年南部領にきり

したん穿鑿の高札を建てた際には「御公儀よりきりしたん御穿鑿御札十二枚(略)盛岡、新町、郡山、花巻、鬼