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)によ

柳、土沢、遠野、両閉伊、大迫、沼宮内、花輪、滴石、右之外八戸、三戸、久慈、福岡、一戸、五戸、七戸、野

辺地、田名部、此九ケ所ヘハ八戸より被遣」

雑書』同年

正月一〇日条

)として、領内主要在町の一つに花輪をあげている。

明暦三年(一六五七)八月毛馬内九左衛門長次が知行替をもって花輪城に移った。当然家中の武士たちも花輪

に住むこととなったが、その人数については明らかでない。萬治二年(一六五九)神明社の本堂と拝殿が毛馬内

氏の寄進によって修復されている。寛文元年(一六六一)南部領内の二三の宿駅等に酒屋二三軒が公認され、鹿

佐羽内家文書・市史第二

角は花輪・毛馬内各一軒となっている。また同七年八月の「花輪御町酒屋定事」

巻上・第三章第五節参照

ると、大町五軒、新町二軒の計七軒が名をつらねている。なお新町の名は、既に『雑書』慶安五年(一六五二

二月四日の記事に見える。さらに寛文八年四月四日「花輪町火事出来、家数三十八軒焼失之由」、同じく八月一

日一花輪町之家十三軒二三日前焼亡候由」の記録があるが、その町名は明らかでない。

寛文八年三月幕府は布告を出し、商人が諸商売物を買溜め物価を高騰させているとして、摘発を行うよう命じ

た。藩は在々所々へ捜査の役人を派遣したが、その出張先は、盛岡御町、盛岡廻在々、郡山、大迫遠野、花巻、

安俵土沢、大槌、宮古、沼宮内、一戸福岡、浄法寺、三戸、五六戸、七戸野辺地、田名部、花輪、毛馬内大湯で

あった。花輪へは坂牛伊左衛門・舟越清助組、毛馬内大湯へは永田善左衛門・裝綿忠右衛門組が入っている。鹿

用においては花輪、毛馬内、大湯がともに主要な在町として扱われていることの裏づけである。因みにこの時胃

直く品々として対象にあげられたものは、米、大豆、雑穀、銭、荏、蝋、漆、鉄、塩、灯松、綿、たはこ、魚

畑、干肴、海草、麻糸、紅花、紫根、炭、春木、塗物類、布、むまた、皮類であった

化輪へ毛馬内氏に替わって中野氏が入ったのは、延宝二年(一六七四)春のことである。当初花輪在住の中野