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豕中人数は詳かでないが、幕末(元治二年)には六〇余名をかぞえている。また同時に同心三〇人を預けられ
甲野氏がその支配に任じられた。家中屋敷は二の丸・南館・北館・横町・袋丁等にまとまり、同心丁は街道にそっ
て町の北端に置かれた。現在の組丁である。同年長福寺が堰向に移され、その跡地に中野氏菩提寺長年寺が建立
された。翌三年三月、「花輪今泉村」二一軒が焼失している。
藩直
明和二年(一七六五)一一月、これまで中野氏の知行支配町であった花輪町は、尾去沢銅山が御手山
)
営
となったのに伴い、代官支配となって残らず引渡されることとなった。その一件を記した『花輪町御代官所江引
川村
渡候書留帳写』(
了)によると、初め引渡しの対象となったのは御町通
預り町の意、六日町、
谷地田町、大町、新町
)と関向通の検
家文書
断支配区域で、但しこの内「沢口屋敷、長年寺門前家三軒、大光寺屋敷」「恩徳寺の下夕長年寺門前」および関
向と小上清水の一部にある中野氏田地は除かれている。当然中野氏家中の居屋敷区域と同心丁は除外され、ほか
に中野氏給所肝入支配下の横丁、川原町、今泉、中小路の四丁は「横丁ニハ商人職人町続故住居ハ仕り候得共、
外三丁ハ手間取百姓斗罷在候」として除かれる見込みであったが、曲折の末御町と同じく引渡されることになっ
た。この時引渡しの御町の総家数は二八七軒、ほかに横丁以下四丁の家数九八軒と書上げられている。なお立合
の地元側は中野家町奉行二人、宿老二人、検断二人、肝入一人であった。
花輪町の家数については、安永九年(
七八〇、
『邦内郷村志』
)と享和三年(
一八〇三、『御領分
中本枝村付井位付』
)の改めがある。いずれも
花輪村の内として掲げられ、当時の概念としてはあくまでも村の中に置かれている在町であった。
安永九年改享和三年改
花輪村四八四軒五一六軒
安永九年改享和三年改