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一、右町にて夏に至、唐津くしら、くらけ、しょうか秋田より参候、冬に至、鮒、授、同所より参候、當町にてけし
あられ、紫染も仕候、百性共江申付候得ハ相調申ニ罷成候。
右の商品のうち、市にだされたと思われるものにまず海産物があり、秋田領からの鮒や※、八戸など奥筋から
塩や昆布など、そして鯨、くらげ、しょうが等は下り物であった。その季節季節によって賑わうのは、うど、わ
小枝
らび、みづ、あざみやきのこ類の山菜であったろうか。付近の村々から「大根、うと」(〓
)、「夕がほ、さゝけ、
指村
小平
新斗
ねぎ、きもとの類」(
〓)、「ごま、かぶ、あぶら」
)等の野菜類も運ばれていた。
村
米村
文政七年(一八二四)の菊池武候『鹿角大湯日記』八月二八日の項には「當所(花輪)市日八日、十八日、廿
八日、當日市日にて在々より集りさまさま携出、交易の人馬繁栄す」と記され、簡略な表現のなかにその雑踏ぶ
りを描写している。
在町・毛馬内
毛馬内町が現在の位置に成立したのは、わりと新しい年代のことである。毛馬内の移り変わ
りについて、毛馬内不動院の古記録である『毛馬内古実記』
岩手県立
図書館蔵
は、おおよそ次のよ
うに述べている。
往古の毛馬内は毛馬内沢にあって、館をかい館又は牛館という。それより古館に移り、今の毛馬内に移ったの
同一三年
は慶長戊申年(
)のことである。国守の南部利直が慶長二年丁未の春
但し二年の干支は丁酉で、丁未
に信を置けば慶長一二年となる
)廻国の
一六〇八
際に古館から南の方を眺め、柏木野の崎に居館を移し、前の谷地や下の原を在家にせよと命じた。そこで小枝指
右京が奉行となり、柏木野の崎を堀切して新城とし、釈迦堂谷地を埋めて町づくりに着手した。二ノ丸家一三軒、
三ノ丸二二軒、羽場小路又は小給人町、鉄小路、二かいほり、合館小路、上小路、次いで御町、金の手、城の下、