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止徳五年(一七一五)三月一七日五軒町角の与五郎が火元で町表、裏町残らず一三八軒類焼し、延享二年(
七四五)閏一二月一七日毛馬内町新五郎火元で七〇軒(
町名
不明
)焼失している(
「雑書』
ほか
)から、既に人家の密集した
町並となっていたものと思われる。その家数について、安永九年一
一七八〇、
『邦内郷村志
)と享和三年(
一八〇三、『御領分
中本枝村付井位付』
)
の改めを掲げると、次の通りである。
安永九年改享和三年改
毛馬内町三一四軒三〇三軒
内上町三一二五
中町三四二三
下町四六三四
五軒町五七二五
加屋町三三二〇
下小路七九四九
安永九年改享和三年改
川原町三八二九
城ノ下-一七
後小路-五
後家口-一一
古町-一五
館-一八
同心丁-二
右のうち安永九年分には、給人や桜庭家中などいわゆる士分の家数は含まれていない。かなり年代は下るが、
文政一〇年(一八二七)の記録では給人三六人、与力八人、境役三人、同心二一人
前出『南部
藩秘私録』
)を数え、嘉永五
給人
年(一八五二)の天山堂『御用留』には「毛馬内通り諸侍
)惣人数七拾人、外ニ御医師三人」と記され、
のみ
『毛馬内郷土史稿』によると幕末においての給人は八〇人位、桜庭家中は八五人であったという。
文化年間(
一八〇四
へ一八
)における毛馬内の町並を詳しく書上げたものに『文化十一年毛馬内通御代官所毛馬内町
屋鋪壱軒限間数家並ニ書上仕候様御沙汰ニ付書上帳』
高橋
家文書
)があり、それに基づき図化したのが柳沢兌衛
幕末期における毛馬内の町並」(
『上津野』
〓9所収
)である。それによると屋敷総軒数二五九軒で、士分の屋敷は除か