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毛馬内の産物については、市史第二巻上・第三章第七節に述べているが、紫染木綿、茜染木綿は夏分ばかり染
)。
南部盛岡藩御領)
〓すとされ、罌粟霰、濁酒、桑酒が古川村の狭布細布などとともに名産となっていた(
分産物書上帳』
毛馬内市が、近世の各年代を通じて存続したことは、各年代記や書留類に二日の市日の米相場の記録という形
伊藤孝
でも書残されている。例えば宝暦五年(一七五五)、伊藤喜三右衛門『御年代記』
)に「宝暦五年七月十二
氏蔵
日、市黒米百文ニ九合、造酒亥ノ秋より御停止」、また若松屋『萬書留扣帳』』に、安永二年(一七七三)「米六日
廿八日花輪市三斗壱升迄之所、當所七月三日市弐斗五六升迄之由」、天明三年(一七八三)「七月三日市弐斗三升
位米相場之所(略)、廿二市米弐斗壱二升になり候」等とある。
なお前述の松浦武四郎は、毛馬内の市日そのものについて「扨今日は当所の市日なりとて、山家又は農家等よ
り思ひ〳〵の賣ものを持し来りて、市町に莚を敷、是を鬻げり。其繁華なること云つくしがたし。惣而南部領は
月ニ六の日、三の日のと市町の日を定め置てものの商賣をする也。其の餘の日は市家といへども甚寂しき事也
『鹿角
)と記している。この情景は毛馬内のみならず花輪や大湯も同じことであっただろう
日誌
在町・大湯
潘政初期の頃に在町としてあらわれた大湯町が、その後どのような推移をたどり在町機能の維
持につとめたか、あまり知るところがない。
大湯は、中世から花輪や毛馬内と同じく、強い支配力をもった有力国人の本拠として周辺に威をふるっていた。
即ち鹿角奈良氏の頭領が、大湯の在名をもって大湯氏を称え、永禄・天正の戦国期には反南部勢力の一中心とな
り安東氏や津軽氏と結んで活躍したことで知られる。例えば天正一〇年(一五八二)ないし一三年の大湯殿宛安
のち五
東愛季書状(
市史第一巻五〇
ページ参照
)における大湯殿は、大湯五兵衛昌光かその子の彦六昌忠一
)で、昌忠の弟四
兵衛