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郎左衛門昌次の可能性もあるとみられる。そして四郎左衛門昌次は、天正一九年いわゆる九戸一揆において大潟

鹿倉城の籠城戦ののち九戸城に入城して節をつらぬき、九戸方頭人の一人として処刑された。昌光・昌忠父子は

南部信直・利直に仕え、九戸陣には「大湯五兵衛二千石、四十五人」、慶長六年(一六〇一)岩崎陣には「大湯

五兵衛二千石、此下四十六人」、同一九・二〇年大坂の陣には二千石「大湯彦六、五十六人」として出陣し、そ

年代

六四四

れぞれ軍役を果している。その後大湯氏は大湯を去り

)、正保年中(

)昌忠の子昌邦の早世によっ

不明

~四七

て断絶した。

右の大湯氏の事跡に徴しても、大湯にはすでに中世から大湯氏居館(城)の館下タにかなりな規模の集落が形

成されていたと考えられる。その地理的位置も、八戸南部氏や三戸南部氏が鹿角経営、津軽経営のために往来し

た重要路、八戸-三戸-大湯の、後年来満街道といわれた古い街道の要衝を占めていた。大湯氏の跡へ昌光の女

婿でもあった毛馬内三左衛門直次が入り、さらに寛永二〇年(一六四三)毛馬内から毛馬内靱負則氏が移り、明

暦二年(一六五六)則氏の病死によって大湯館には赤尾又兵衛、同伊兵衛の兄弟が入った。然し赤尾氏の大湯支

配の期間は短く、寛文五年(一六六五)北九兵衛宣継が九戸郡小軽米から知行替によって大湯へ移った。北氏は

南部氏の一族で、八戸(遠野南部)氏、中野(花輪南部)氏とともに「三家」の一つとして、文政元年(一八一八)

以降南部氏を称した藩の重鎮である。天保一〇年(一八三九)『諸士御給人等地方給所村付書上』にみる大湯南

部氏の知行高は二、五四八石余。うち大湯村ほか毛馬内通に一、一九一石余、その外八幡通関口村、八重畑村や大

迫通宮森村などに給所が散在していた。

このように大湯はつねに藩内有数の大身が館を預かり、その家中

臼

陪

)を居住させていた。大湯在住の家士は、