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さらに天明元年(一七八一)一〇月宝殿・拝殿修覆の記録には、同じく代官、下役に次いで町老・検断の名が連

なり、町奉行名がなくなっている。

町老井上長左衛門杉江新兵衛

検断関五兵衛菊池惣右衛門小田島源助

花輪町は明和二年一〇月まで中野家の預り町であったため、中野氏によってその家士二名が町奉行に任命され

直

町の秩序維持に当たっていた。同年尾去沢銅山が藩の御手山(

)となるに及んで、横町・袋丁などの家中屋敷

営

と同心丁のほかは町中残らず引渡しとなって、代官所支配に移った。従って右の明和元年の例には「中野政之助

町奉行」二名が記されているものの、その後の例からは町奉行は消えている。また右の二例にいずれも「町老」

川村

とあるが、別の明和二年『花輪町御代官所江引渡候書留帳写』

)には町老は「宿老」の名であらわれ「宿

家文書

老長左衛門、与兵衛」と書かれている。その後宿老は井上長左衛門一人役となった模様で、寛政期(〓〓

七八九~

八〇一

く〓

には既に一宿老・三検断となっている。やや後年の天保七年(一八三六)の例では

工藤

家文書

宿老井上長左衛門

検断甚兵衛市郎兵衛善兵衛

老名瀬兵衛六兵衛新兵衛六助庄六

となっている。なお井上長左衛門は、天保一三年九月「御銅山御用向数年心得宜躰相勤候付、一生被下置候壱人

「覚

御加扶持、永ク苗字刀御免、御銅山御用達被成下之」(

と申渡されている。花輪の宿老役は井上長左衛門の

書』

世襲となっていたため、毛馬内などと異る形で検断・老名の上位に置かれ、町役最高の権威と目されていた。