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検断については、『雑書』慶安四年(一六五一)九月二三日の条に「花輪之内谷地田町検断喜左衛門、當月廿

日之晩走候由、波岡勘解由左衛門状を以披露之、右喜左衛門地方廿二石持候所、跡地家財改候書付一通、喜左衛

門五人与之書付一通状ニ添上ル」とみえる。走とは他郷へ逃げる欠落・出奔と同じ意味で、喜左衛門は検断であ

るのに何故欠落したのかその事情はわからない。波岡勘解由左衛門は花輪城代衆の一人である。ただここで留意

したいのは、喜左衛門は地方二二石の高持であり、ひいては検断には町の有力者がなっていたこと、また五人組

が町内のしくみとして古くからあったことである。五人組がある以上、組頭もまた決められていたと思われる。

花輪の検断について若干の推移をたどると、天明三年「谷地田町儀兵衛、新町武兵衛、横丁源助」、寛政六年

「中村忠左衛門、杉江快右衛門(与六)、川又弥兵衛」、享和二年「快右衛門、市之丞、弥兵衛」、文化五年「折戸

市之丞、井上小四郎、村山善五郎」(

以上『手鏡

記録書』

か)との記録が残る。『花輪町史』

呂城一杉

昭和三二年

)は、「幕末まで花輪

町に上・中・下に三人の検断があった。即ち上通りには中島藤右衛門、中通りには折戸市郎右衛門、下通りに横

丁に村山某等であった」と表現している。

老名は、村方の老名と同様、検断の下にある一種の議決機関であり、かつ場合によっては執行の役も果してい

たと思われる。

毛馬内の町方役

毛馬内の場合も、花輪とほぼ同じしくみをもっていた。毛馬内町は明暦三年(一六五七)

桜庭氏の入部以来、同氏の預り町としてその支配するところであった。『雑書』にも「桜

庭安房預り毛馬内町(略)自火ニて家数七拾軒焼失之旨」(

延享二年閏一

二月二二日条

、桜庭丹波口上書として「私預毛馬内町

宝暦一三年七

出火、拾壱軒焼(略)」(

)などとみえる。桜庭氏は家士の内から町奉行二人役を任命したので、宝

月二三日条