テキストを表示
)。
暦七年「御町奉行中津山佐源太、岩船瀬左衛門」、同一二年「御町奉行岩舟清左衛門、浅沼左覚」、明和七年
「湯瀬勇左衛門、竹沢沖左衛門」、寛政九年「浅沼郷左衛門、立山岡右衛門」等の名が現われる(
以上天山堂文書)
『御用書留扣帳』
寛政九年一二月に至り、いわゆる「毛馬内村知行所一揆」
『内史
略』等
)によって毛馬内町は桜庭氏預り町から代官古
配の町に替わった。当然この時点から桜庭氏任命の町奉行は廃されている。なおこの事件は、桜庭兵庫が町方に
対して支配所同様に扱い、御用金を徴収するなどの苛政があったとして町人代表らが盛岡へ愁訴し、藩の詰問に
桜庭側が毛馬内町は先祖拝領の知行町に相違ないと答えたため、証拠もないことを麁末に申上げ不届きであると
して、町を取上げられた経緯のものであった。
宿老については、天山堂(
屋
若松
化)文書の内無標題横帳の覚書の中に、宝永七年(一七一〇)六月桜庭家内役人
から毛馬内町宿老五人に宛てた御免地証文がそれぞれ掲げられている。宿老名は山本九郎兵衛、片山甚吉、鎌田
源左衛門、若松市左衛門、浅利惣左衛門で、与えられた御免地は九郎兵衛、甚吉、源左衛門は高五石、市左衛門、
惣左衛門は高二石であった。ただ宿老とあるだけでなく、町老という表現もなされている。同書にはさらに延享
元年(一七四四)の宿老として鎌田源左衛門、若松利兵衛、浅利惣助、木村孫右衛門、西村善左衛門が記録され
にいる。毛馬内においても宿老役は世襲的な傾向の濃いものであった。次に乏しい資料の中からその名を掲げる。
年月宿老名
年月宿老名出曲
玉暦一一・三源左衛門、市左衛門、『諸用書留帳』(宝暦五年、天山堂文書)
孫右衛門、市右衛門
宝暦一三・三市右衛門、伊左衛門、市十郎