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その後の検断については寛政から享和期へかけて若松弥右衛門、仮検断兵左衛門、文化期においても弥右衛門
か続き、文化一四年(一八一七)に至り検断勇助がみえる。文政期は理兵衛がつづき、文政一二年(一八二九)
になって七郎兵衛、天保の初期から市左衛門がみえ、天保一三年(一八四二)に八兵衛がでている。弘化元年
(一八四四)に儀七、同三年忠八があらわれる。右の年代は勿論その任命時を意味するものではなく、史料に検断
名のでてくる年次である。(
天山堂文書、町井家文書、
田中文書の諸書留類
)。
大湯の町方役
のちの大
大湯町も花輪・毛馬内と同様、北
)家の預り「御町」として、北家の家士から任
湯南部
命された町奉行の支配下にあった。「大湯御町奉行」として、天明三年(一七八三)山口庄
之進、寛政三年(一七九一)諏訪宗治、文政七年(一八二四)一方井勇右衛門、天保一一年(一八四〇)黒沢儀右
)。
衛門らが散見している
『大湯諸士由緒書』
諏訪家文書
大湯町の検断・宿老についても、多くは知られていない。浅井小魚が凶作に関し諸書留類から集成した『三歳
異変』(
「鹿角市史資料
編第三集』所収
についてみると、まず享保二一年(一七三六)検断作右衛門があらわれ、元文・寛保・征
享・寛延の各年代にわたり役を勤めた模様である。寛延三年(一七五〇)二月大湯町中から火災・飢饉と相次ぐ
急便の
町の疲弊を訴え、諸伝馬ならびに一里状使(
)等の町役についての軽減を願いでた願書に「検断作右衛門
逓送役
「御町老清平、久内、忠平、茂平、伝右衛門、已助、治平、市平、孫平、助七」の連署がある。即ち当時一検断
一〇町老のしくみであった。翌四年、検断は久次郎に替わり、宝暦六年(一七五六)に専右衛門となっている。
女永四年(一七七五)二月九日大湯町清六が火元で同家焼失、馬三疋焼死した旨の届書に「検断市右衛門、五
人組万太郎、伊之助、三太郎、清六」の連判があり、検断は市右衛門であることと五人組が連帯していたことを