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てあるので、この度明いた川原の左兵衛屋敷を目明屋敷にするため、町中からつなぎ銭三貫文を集めることにし
たという記事がある。翌一一年には、目明吉之丞の「太義銭」として「御町指上り其外賣買ノ者共」から三貫文
余を呉れていたが困窮の模様なので、御町の内近江屋伊兵衛や伊勢屋なども物屋を廻って右の割合銭以上になる
ようにしてきた。そこで同一二年正月に宿老が相談の上「御町通小間壱間三文懸り」も、「町中より壱貫文斗、
脇丁かき宛ニして四五百文」にし「其外御町指上り賣買人之者共相加へ」、一貫八〇〇文は暮に呉れることに決
め、御町脇丁とも廻紙をまわし「小間銭」を集めることにした、と書かれている。右の文だけでは理解し難い点
もあるが、目明には太義銭-太義は骨折り、難儀、億却なことであるから、いわばご苦労代-という名目で町内
から「小間銭」を集めて呉れていた。小間銭の意味もよくわからないが、小額の銭ということであろうか。また
鹿角の方言で正月や盆の祝儀金やお年玉をまっこというので、その意味もあると思われる。さらに小間銭に加え
物屋や商売の家からも拠出していたが、「御町指上り賣買人」とはどういう階層をさすのか明らかでない。
天山堂文書には、安永九年(一七八〇)九月「川原目明シ屋敷徳助家ふしん願」がみえ、さらに寛政へかけて
目明川原松之丞の名がよくあらわれる。松之丞は春田打行事などにおいて芸能の太夫役なども勤めていたらしい。
さらに『雑書』寛政九年(一七九七)閏七月一六日条には、盗賊一味にかかわったとして「毛馬内目明シ松之丞
に対する申渡し状が掲げられている。去々年一二月治兵衛と善蔵妻子三人が、路用に窮したから鹿角で稼ぎ貯め
関東へ登りたいというので宿に泊め越年させた。その後いろいろと理由をつけ五月末頃まで滞在したが、善蔵ら
は花輪で土蔵破りをし三戸で捕縛された。盗賊一味の他領者を数カ月泊置いたことは無調法至極であるが、自分
の利欲を計ったのではないからご慈悲を以て野田へ追放と決める、という内容である