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また同年一二月、毛馬内町が桜庭兵庫預りから代官支配・御蔵町となるに際し、その趣旨を馬指仁左衛門に申

付け町中に觸通させ、目明徳助に火の元用心の廻り方を厳しく申付けたとあるので、馬指・目明は非常の折には

そのような役目も担っていたのであろう。

寛政一〇年『日記書留覚』(

町井家文書・『鹿角市史

資料編第十一集』所収

)には、享和四年(一八〇四)正月盛岡生まれの重兵衛が毛馬

内へ金掘り商売にきて、目明吉左衛門の所へ宿をとっていた。大地村の千太がその重兵衛を博奕の争いから打殺

し赤はげへ運んで投捨てた。千太は盛岡で入牢の上、毛馬内へ送り返され古川川原において打首になった、との

記事がある。田中彦兵衛『諸用書留』には、文政六年(一八二三)三月として「此元目明吉右衛門」の名がみえ

る。天保五年(一八三四)九月には、咎人として毛馬内町喜八等四人が取押えの上目明の川原宿へ下げられ、給

人、同心二人その外五人組の者や親類共も附添を命ぜられたとある。

これらの例から目明は、不審な他国者などを宿泊させてその挙動を監視したり、代官所管内村々の犯罪人また

は容疑者をその宿に留置するなどの任務を帯びていた。

用水・町柵

小と集落は、切り離せない関係にある。原則的に云えば、豊かな飲料水や用水の無い所に集落

(立地は難しい。この点から花輪と毛馬内を比較すると、かなりその事情が異なる。花輪は白

然がかち、毛馬内は人工がかっているといえる。

花輪は、台地の裾の街道に沿って発達し、細長い町並をつくった。台地の真下には幾つか清水の湧出点があっ

て、人々の生活を支えてきた。その象徴は六日町の「おせど」である。おせどとはお伊勢井戸のことで、神明社

大鳥居わきにこんこんと湧き出て尽きることがなかった。六日町はこの泉井戸を中心に開けたともいう。谷地田