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町の裏小路にも清冽な泉が湧いて、小上清水の名を今に残している。

花輪の景観の大きな特徴となっているのは、その西側町裏を淙々と流れる大堰の存在である。町の南端堰根川

原で米代川から分水され、町裏を潤した後砂森で福士川に合流し、延々八キロ余にして鶴田の北で米代川に復し

ている。その開鑿年代は明らかでないが、始まりはおそらく一七世紀初頭に遡ると思われる(〓

市史第二巻上・

二六四ページ参照

)。

五七

伝承では、天正(

)の終わり浄土真宗専正寺建立に尽力のあった当時の勢力家池田吉兵衛の掘進工事〓

(九

始まり、のち正徳(

一七一一

~一六

六)の頃八正寺林の開田を企図した井上長左衛門等真宗信徒の一致協力によるものと

語り継がれている(

宮城一杉

「花輪町史』

)。

大堰に沿う町家ではそれぞれの流れの岸縁に台桟倉とよぶ足場を作り、顔や体を洗い食器や洗濯物を濯ぐなど

日常生活の大切な用水としていた。ある時には、人々の家や財産を守る防火用水の役を果してきた。大堰端に酒

一・六石

造蔵が並び、時には径五尺(

〓)以上の大酒桶が洗われていることもあった。当時の大堰の流れはまこと

メートル

に清らかで水底の小石も鮮かに見える程であった。また毎年晩秋の霙降る頃になると、米代川を流してきた春木

が大堰に導かれ、中堰向で春木揚げされて土場一抔に整然と棚積みされた。その量はほぼ三、〇〇〇間、町の一

年間の囲炉裏の薪となり賄い方の焚料に供された

前掲書並びに市史第二

巻上三二二ページ参照

○。

町の北方を流れる福士川も、当時豊かな水量で生活に深くかかわっていた。文政四年(一八二一)春、菅江真

菅江真澄全集第十一巻所収

澄は『上津野の花』

)の中で、紫根染・茜染がとりわけ色よくできるのは、稀にみる清冽

「ふでのしがらみ』のうち

な福士川の水で染めるからである。六日町久右衛門を元祖とする「あまちこ」もこの川の水で醸造している、と

記している。口碑によると、花輪に多かった鍛冶屋は福士川の水を使って発達した、とも伝えられる。