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内壱貫百五拾七文市右衛門方より出ス、尤先年ハ仲間同割合相出シ候得共、此井ノ水當年迄近年手前壱人ニ而

水遣方ニ成り、のとやハ五六年以前水戸相分ケ、此方ノ中間水用不申、不動院ノ水用申候、依而此度割合斗手

前より余計出シ置。

右の普請代総計二貫三一五文の内、若松屋市右衛門が一貫一五七文を負担し、引残った一貫一五八文を市左衛門、

弥兵衛、此右衛門の三人で三つ割している。即ち馬渕友八屋敷の本井戸を右の四人が使用していたのであろう。

さらに同書留帳から井戸関係の記事を引くと、まず明和九年(一七七二)八月、かねてお願いし湯瀬新八屋敷

の井戸を普請して手前屋敷(市右衛門)へ水戸にて入れていた所、新八屋敷内からの水戸は城ノ下の通の橋を小

し下り「待きっつ」一つ、五軒町通り中に「待きっつ」一五、その間々に「くだ」があってこの新八屋敷井戸水

が通用しなくなった。もと定之丞屋敷が手前持屋敷なので、ここから井戸水戸を岩舟紋左衛門家垣根越しに表小

路へ通し、橋の外にて「待きっつ」へ一つに入れた。翌月になって紋左衛門前から六左衛門前まで「待きっつ

九つ、間々に「くだ」があり、定之丞屋敷より水上なのでこれを用いるようにした。新八屋敷前から城ノ下へ通

る橋の前で、両方から水戸一つに入る水が来た、とみえる。水戸はもともと堰とか水門の意味で、「待きっつ

とは中間に設けられた水槽・みずぶねであろう。きっつは厚板で作った箱状の水溜をいう。「くだ」は明らかに

埋設された水道管のことのようである。

一七七一

安永年中(

)の項に、「先年馬渕金兵衛殿下タ井戸水道流ノ者共、のとや迄入八貫文出、右手形のとや

~八

江在之由、其後のとやノ方ハ水届不申由ニ而、中頃不動院より水届来、水戸是より別段ニ通シ、今テのとや方江

(水参不申候」とあり、能登屋へ馬渕金兵衛下夕井戸からの水が届かなくなり、替わって不動院からの水戸が通