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作製である。当時の家並など丹念に描いているが、まず
町の境目に柵構えのあることに目をひかれる。柵は、南
は六日町のはずれ、北は組丁のはずれ、ほかに今泉の北
端と、三カ所に設えられている。見る限りでは、町の両
側に柵が打たれ、路上にややはみ出て門柱の如き大きな
柱が両側に相対している。門に開き戸がついておれば木
戸となるが、木戸は描かれていない。この柵が道を塞ぐ
機能を持っていたかどうか伝わるところがないが、例え
ば盛岡城下北出口の四ツ屋物削、南出口の穀丁物門といっ
た城下町特有の関門を連想させる。かつて六日町の南に
新田町を隔てて、土塁を廻らした桝形があり「城がしら」
とよばれていたことからも、関門的な柵ではなかったか
と思われる。
宝暦~
毛馬内では、天山堂文書『御用書留扣帳』(
)の
寛政
中から次の記事を見出すことができる。安永五年(一七
七六)三月「萱屋町御同心丁関堀替井柵之外江橋懸共ニ
被仰付」とあるが、柵の外へ橋をかけるという柵そのも
第4図新田町・六日町境の町柵(『鹿角のあゆみ』から)