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天和二年五月日奉
右條々可相守、此旨若違犯之族於有之は、可被處厳科者也、下知如件。
天和二年五月日
奉行
右之通被仰出之間、領内之輩弥堅可相守者也。
この高札は、幕府の公布したいわゆる天下の御法度である。南部領内二七カ所に立てられ、その内鹿角は花輪・
毛馬内・大湯の三カ所であった。
高(制)札は藩庁から交付をうけ、権力の象徴として大切に取扱われたもので、これを冒漬する者は重く処罰
されるのが例であった。『雑書』正徳三年(一七一三)六月二日条に、花輪町の御制札に墨を塗った者が現われ、
やがて打首獄門の極刑に処されている。また同書宝暦六年(一七五六)八月二〇日条では、毛馬内御制札に墨を
塗られるという不祥事を生じたので、係の給人が不取締の廉で役分取上の処罰をうけ、桜庭丹波は差扣謹慎の伺
いをだしている。天山堂『御用書留扣帳』によると、右の制札場は宝暦一〇年三月、山本九郎兵衛の持屋敷で表
口拾七間の清五郎屋敷へ移転したという。同一二年一二月二二日夜再び制札に落書する徒らがあったが、代官の
指図で穏便に直させ、札を懸ける所へ戸を付け、その上昼は番を一人ずつ付けることにした、と記されている。
明和七年(一七七〇)一一月その制札場の柵を損じ修繕したともあるので、柵も取付けられていた。
見政一〇年(一七九八)四月、「御高札前番小屋壱間ニ七尺ニ〆此度新規検断所ニて拵えさせ候由」というヨ
事もみえる。
代官の申渡事項
見政一〇年(一七九八)二月、毛馬内町が代官所支配と改まったことに伴い、代官江刺家
周蔵・菊池矢柄は下役黒沢安左衛門を立合せ、宿老・検断に対し次の箇條を申渡した