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材木山と米市場
このように、当初納米を独占していた御城下商人に代わり、次第に地元商人が関与するようになった。
鹿角の米の消費地として、鉱山と在町のほか、臨時的ではあったが材木山をかぞえること
かできる。津軽との藩境地帯は杉材の産地として知られ、藩政初期からその剪出しが盛ん
一一
であった。『雑書』正保四年(一六四七)極月(
)四日条に
月
、津軽境鹿角小坂山、遠辺ケ沢壱村杉五分壱ノ役材木上ケ、望の書物新町七郎左衛門、同義兵衛、同掃部上ル。
右の遠辺ケ沢は津軽藩境の山々のことで、中でも古遠部・新遠部山は大森林地帯である。この杉山伐採以来、明
暦、延宝と連年杉の他領出しがあった(
市史第二巻上・第
二章第二節参照
)。
禹治元年(一六五八)一二月には、石之巻の二郎兵衛が先年の捨木・寝木一、〇〇〇本を御礼金二五〇両で搬
出を許されている(
「雑
書』
。この杉材は本口五、六尺、末口二、三尺廻りの巨材である。このような杉材の伐採や
搬出には多くの杣人や人夫を要し、従って多くの飯料米を要したと思われる。
雑書』寛文一二年(一六七二)八月一四日条に、藩境の山に津軽祉三人、御当領杣三八人など専門の杣人が
入ったことがみえる。また同書寛文一三年七月四日条には、新遠部山に於て「とんた(富田)や清右衛門、まき
ゑし新蔵、平之内長兵衛」が長さ二間の五寸角材を江戸送りし、その入料米五〇〇駄は花輪御蔵から払出された、
とある。このような例から、杣人らの飯料米として相当量の米が必要であったと思われる。