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新田開発によるものである。

新田

寛保二年(一七四二)には毛馬内通代官所の内乳牛村等六カ村にて高五〇石の新田野竿通し(〓

計測

り、その開き立て新田は次の通りである。

)を願出てお

濁川村下川原古川敷兎尻落合川両向古川敷寒川平下モ相内沢野形新遠部落合二ノ木場野形うた脇砂

子沢出口野形

小坂村かつこみ清水堀内沢祢つの木上関上山(堤ケ浜)尾樽部沢出口野谷地杉沢野谷地

毛馬内村中野川原古川敷古川橋ノ手前野形野月悪戸

大地村そうぜん堂ノ下堀内沢野谷地館ノ下石佛亀田野形

万谷村湯坂ノ下牛馬長根野形雨池沢野谷地物くさ沢野形陣場

乳牛村宮ノ口野形

この時、一石に付一貫文の御礼銭を支払っている。願出は目付衆に取次がれ証文が下付されており、従ってこ

の時伊勢屋の持地に五〇石が加算され、計七三八石余となっている。

この持地・知行地からの出米を中心に、給米が市場に出廻る暮に安価に仕入れ、夏の端境期に売り出して利益

をあげていた。

宝永の〓山

欠に伊勢屋の材木商としての側面に触れてみる。伊勢屋が木材を扱った記録は乏しく、家伝や

〓定目録の在庫調等によって推定できるだけである。元禄一四年(一七〇一)二月の在庫調杳

では、春木四万三、〇〇〇丁余があり、その後の元文・寛保の調べでも二〇数棚の春木があったことがみえる。

伊勢屋が木材の他領出しを始めたのは宝永の頃からである。同家の書留によると、宝永元年(一七〇四)九月、