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給人登用と家代
大坂へ出張している。この時の滞在は一カ月に及ぶが、残念ながら購入品や輸送経路は明らかでない。
危酒については、享保一四年(一七二九)の造酒石高改めでは「石高〆七拾弐石、外ニ二三月より四月五日迄
の賣酒四拾七石五斗、二口〆百拾九石五斗」(
「酒屋御定目』
山本家文書
)とあり、伊勢屋の一三三石九斗に次いで毛馬内町第
二の醸造高を示している。更に元禄の大凶作以降田畑の集積を進め、享保に至るまでの間、伊勢屋と共に毛馬内
通に隠然たる勢力を持つ大商人となった。
若松屋
天明三年(一七八三)一一月六日、毛馬内通代官戸来源左衛門から、市右衛門(
)始
高橋
め弥三右衛門
若松屋
豊口
能啓
)、清左衛門一
)、市十郎一
若松屋
高橋
)、小右衛門
屋
若松屋
豊口
)の五名に対
し、火急の御用により七日未明に盛岡へ出府するよう達しがあった。余り突然の事なので八日出立を願い出ると、
これを取次いだ桜庭家町奉行湯瀬新左衛門から、未明が無理なら昼立ちでも止むを得ないが、至急出立するよう
重ねての達しである。天明三年は未曽有の大凶作で伝馬を勤める者がなく、大難渋を重ね九日昼過ぎ盛岡着、そ
れぞれ届出を済ました。火急の御用とありながら、呼出のあったのは一七日であった。以下『御用向書扣帳』
天山堂文書『鹿角市史
資料編第五集』所収
)より経過をたどってみる。
十一月十七日七ツ時御代官乳井平十郎様より御差紙七九郎
市右衛門
嫡子名代
)、弥三右衛門相詰候様申参り、両人暮ニ及び相
詰候。今晩相招き候由は、御用向至極御内御用と仰付けられ仰渡され候。此度召出され候御用ハ、其方共両人所御給
人御与力御不足ニ付、甚夕御用御指支成され候間、両人之者江此度御給人ニ召出され候と之御沙汰、首尾好く御請申
上候様ニと仰付けられ候。
御用とは、給人に取立てるとの内達であった。これには当然御用金の上納が伴うわけで、名代として出府した