テキストを表示
〆弐拾弐両
四月十八日ニ手形下し置かれ候。右之内拾壱両ハ酒屋御礼銭ニ指上ル。残而申受候。以上
この場合は課せられた御用金と御礼金とを相殺している。
質屋会所の設立
藩政初期から、質屋は庶民の手軽な金融機関として次第に領内に普及した。しかるに宝暦・
入明の大凶作は領内経済に致命的な打撃を与え、金融は硬塞し、営利事業としての質屋は
成り立たなくなって次々に廃業に追い込まれた。一方年貢不納に陥った農民は田畑を、商人や諸職人は家屋敷を
担保として無尽や高利金融に走り、農商の階層分化に拍車がかかるに至った。このため藩勘定所は代官所を通じ、
庶民救済のため天明六年(一七八六)に質屋会所設立を目論んでいる
以下、若松屋文書『御用向書扣帳』にみると、まず天明六年三月、藩から毛馬内代官に対し毛馬内に銅山名目
若松
の質屋会所を設ける旨の内意があり、次いで豊口弥三右衛門
)、高橋佐市右衛門(同)に対し、会所を創設
屋
するよう申渡しがあった。両名は会所設立・運営に要する費用一〇〇貫文の調達について、分限給人の加入を願
出たが許可にならず、銅山よりの下渡し金一〇〇貫文を得たのみで、残り九〇〇貫文は自分達で調達せざるを得
なかった。また公営の質屋会所は無駄な経費が嵩み失敗に終ることを懸念し、両家で質屋を開設する事を提案し
こいる。結局は公営の質屋会所を両家の店に設ける事となり、四月六日勘定所から次のような証文が下附された。
覚
、質物取候節吟味致し、請人相立金銭貸遣し申可く候。預り候道具損じ申さざる様致す可く候。但し盗物質物持参
り候者之れ有る間敷候得共、若紛敷儀之れ有り候ハヽ得ト吟味之上貸遣し申可き事