テキストを表示

後御礼金の支出がないので許可されたものと思われる。

花輪の質屋

尾去沢銅山を控え鹿角経済の中心であった花輪には、当然何軒かの質屋や公営の質至会所があっ

たと推定される。

酒屋兼雑貨商を営んでいた小濱屋又四郎の棚卸帳である『目録覚帳』』には、宝暦一一年(一七六一)頃から

「古脇指三貫文」とか「四貫文貸金質物有り」といった記述が散見する。公認の質屋であったかは不明だが、質

物を取って小口金融に応じていた事は明らかである。天明五年(一七八五)には棚卸総額一、三七〇貫四七九文

と金八両二歩、この内質屋に関しては正銭三〇〇貫文、預り金二二七貫文とあり、質屋が小濱屋の営業の一部門

として独立していた事を示している。寛政九年(一七九七)の決算は次のようになっている

一、弐百八拾弐貫三百七拾九文新古質物有高

一、金六両ト銭百四拾弐貫八百文右有金有銭

この頃までは質屋部門も着実な経営を続けてきたが、その後不振となり不動産を担保とする金融を主体とする

ようになった。

〓お『雑書』文化三年(一八〇六)一二月一八日条に、花輪町質屋八兵衛が不繰合となり代って半助が質屋証

文を請けたことがみえる。また花輪南部家『諸御用留帳』天保五年(一八三四)七月の項には、佐藤屋庄六、同

新兵衛、同幸助、中西屋宇八、屋木喜之助、大和屋徳太郎、善太郎、徳松、栄助が質屋仲間加入の者共として名

を挙げられ「右九人之者共ハ御城下御振合を以御証文頂戴之質屋司様」云々と記されている