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団結し、かつ同族間の結合を深めていた。しかし永禄・天正の頃

五五八

(九

)になると、ようやく村数も増えた

が、南部氏や安東氏の勢力浸透が激しく、その進出により村の領主は相次いで交替せざるを得なかった。ついに

天正一九年(一五九一)、豊臣政権の奥州再仕置に抗した九戸一揆を契機に、鹿角土着の国人層はごく一部の例

外を残し、殆どが郡外に退去して姿を消した。

寛文

戦国期以降の村々を推し測ることができるものに、後年

)の記録であるが、『鹿角由来記』などが伝え

られる。これらの書には「鹿角四十二館(郷)ニ侍四十二人居候事」として四二の村々が掲げられ、これは藩政

期直前の状態を映しだしたものと解されている。田山村、左比内村(

現岩手県

安代町

)を含むこれら四二カ村を、一村

ずつ箇条書きする形をとっているが、いずれも共通する一つのパターンでつらぬかれている。それは村名の次に、

必ず領知の侍名とその本名をかかげ、次に「館有」と明記していることである。村によっては、そのあとに変遷

市史第一巻・五五〇

ページ参照

の次第を書き継いでいる(

)。次に数例をあげる。

一、夏井村、夏井但馬領知、本名阿保なり、館あり

一、石鳥屋村、石鳥屋五郎領知、本名安保也、館有、後に南部九郎正友領す、鹿角三百丁旗頭に三戸より被遣候

一、黒土村、黒土丹後領知、本名秋元、館有

一、高瀬村、高瀬土佐領知、本名秋元、館有、知行村数久保田、用之目、花軒田、松山、高梨子館右六ケ處也、居館

高瀬也

一、小枝指村、小枝差左馬領知、本名奈良也、館有

四二の村を四二人の侍が領知し、苗字は自分の領知する村名をとり、例えば谷内三郎、大里上総、小平彦次郎

などと称している。居館のある村を名字の地とするのは、中世の武士の習いであった。四二人の本名は、奈良・