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第1表宝永5年谷内村持高別百姓人数
「宝永5年『御検地名寄御帳』・阿部家文書
御検地荒木田甚右衛門下斗米九郎兵衛
筆新田百助上野喜太夫
改七戸長右衛門
御横目儀家忠右衛門
谷内村の名寄帳によって作製したのが、第一・二表である。
これによると百姓として十分自立できないと思われる持高五石
禾満の百姓は八二戸で全体の五八・五パーセントをも占め、そ
の内一石未満の零細農家は全体の二五・〇パーセントである。
この数字は村々によって若干の相違があると思われるが、何れ
にしても当時の百姓の大部分は耕作規模の小さかったことを示
している。これは毛馬内通も同様である。
ただし谷内村などの農家の中には、数頭の牛馬を飼育して駄
賃つけ
業
運送
)をしたり、銅山付の山林に入って薪炭製造に当
たる者もあった。
こうした傾向はそのまま幕末まで続き、明治三年(一八七〇)
『宗門明細書上帳』(
阿部
家文書
)によると、五反以下の百姓が〓
体の四〇パーセントを占めている。