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斗分テ呉遣し候而、兼而私所持之材木并古道具を以四間梁ニ六間半ニ家作仕り、別家指置申度奉存候間、御憐愍を

以テ家作仰付けられ下置かれ度奉願上候。尤も家作出来仕り候得ハ御見分ノ上、坪御役銭御免成下され度奉願上候。

以上

享和三年亥正月波岡六左衛門領肝入新斗米村願人惣

五人組同村喜兵衛

小平村肝入孫右衛門

村木周平様小平村肝入孫右衛

村木周平様

長嶺九兵衛様

また天保六年(一八三五)二月一二日、毛馬内村で二七軒を焼く火災があったが、訴え出によると最大の家で

四間梁に八間、三二坪であった。

安永四年(一七七五)二月一〇日大湯村の家屋焼失届は次の通りである

浅井小魚『三歳異変』浅井家文書)

鹿角市史資料編第三集』所収

)。

一、高五石七斗五升

家梁間三間ニ七間

手廻七人

土蔵弐間ニ三間是ハ焼失仕らず

本馬四疋の内三疋焼死馬仕り候

家財残らず焼失仕り候

毛馬内通北監物領大湯村清六

火元清六は持高五石七斗余、家族七人、馬四頭を持つ百姓であるが、家作の規模は家二一坪、十蔵六坪である。