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寛保三年(一七四三)一〇月二三日付諸代官宛の被仰出書にも、次のようにある。即ち、朝六つ時より暮六つ
時まで作場働きをするよう、作物の付賦りの仕事も右の刻限に準ずること。夜中に疑わしい体をして付賦りする
者があったら、見当たり次第捕え置け。万一捕え違いをしても苦しくない。もし近辺の者が遠慮して見逃す場合
には同罪を申付ける、などである。
その処罰もまた、厳しいものがあった。『雑書』記事から若干を掲げてみる。
た(
○慶安三年(一六五〇)閏一〇月三ケ田村杉山惣左衛門が、一八日晩に盗人二人が粟を背負い逃げるところを追いか
〓一〇月
け、一人を討留めた。それは女であったがその首は盛岡へ運ばれ、給主竹林平左衛門によって披露された(〓
)。
二三日条
)延宝三年(一六七五)七月白根の甚五郎という者が、一六日晩瀬田石村兵庫助の稲を穂切にして盗みとり、白状し
斬
たので成敗一
(敗(脚)されることになった。妻子は御台所へ上げ、二〇より上の男子があれば親と一緒に成敗の由申渡され
罪
た(吐〓五)。
七月二五
日条
。
○同年九月
年九月草木村九郎助の稲を同村孫六が盗み刈しているのを、九郎助がみつけその場で打留めた。孫六の妻子は御
台所へ上げられ、馬と家財は地頭川嶋角右衛門へ下げ渡された
九月一七・
日条
)。
○延宝五年一一月石鳥屋村与左衛門が一里番の状使いの途中、稲盗人が脇差で穂切をしているのを見かけ、丁度来あ
わせた三九郎という者と一緒に近辺の者共に知らせ、大勢で捕えようとした処、稲盗人は林に逃げこみ咽喉を〓切って
果てた。どこの誰とも知れず、その所に七日晒した後土中に埋め札を立てて置いた(
一一月二九)
日条
このように、法度を破った者に対しては極刑をもって臨み、他の見せしめにする方法がとられていた。
逃散・欠落
封建経済の基本である米を生産する百姓は、「御百姓」とよばれ国の宝とされていたが、そ
東照宮
の立前を離れると「郷村の百姓共をば死なぬ様に生きぬ様に合点いたし収納申付」
上意
いった方針のもとに、さまざまな制限を強いられていた。そういう中で、個人や家族が貢租や借財などに堪えか
)と