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御百姓之内心得違仕り、手廻召連欠落仕り候者これ有り候、畢竟常々身分不相應なる費用等これ有り困窮ニ相成り、
多く右様の次第に候哉、御国恩を忘却致し重畳不調法之者ニ候、兼て心得宜しからざる事親類組合共不行届の次第に
候間、爾来御百姓共の内手廻召連欠落致し候者これ有り候ハヽ、家一軒ニ付組合之者両人宛五十日尋仰付けられ候間、
急度尋出候様致可き事。
即ち、欠落者が出ると五人組の責任において組の者二人宛が出て、五〇日間捜索をするよう命ぜられている。
宝歴五年一一
『雑書』にみられる、長牛村の水呑百姓定平四〇歳、市之丞七三歳
)、湯瀬村与十郎五〇歳、女
月一七日条
同年正月
房四五歳一
同六年二
月三日条
)、弥助四九歳
)の欠落など、四〇歳から七三歳の高令者の欠落は、当時の百姓の貧
二日条
しさを示すものとして痛々しい。
初期には欠落しても立帰って耕作に当たれば寛大に扱われていた年代もあるが、次第に罰則が厳しくなり、文
化五年(一八〇八)に制定された刑法『文化律』には「欠落井ニ立帰り候者、御仕置之事。附、自分ニ匿置候者、
御咎之事」の項があり、藩境を侵した者は遠追放、他領へ出なかった者は百日手錠、その他の罪状が重なると打
首の極刑も行われた。遠追放の場所は、『文化律』によると「両鹿角、沢内、野田、野辺地、田名部」で、在々
の者は科を犯した所からそれぞれ遠く隔たった場所へ追放と定められていた
中には伊勢参宮と称して村を出て、そのまま帰ってこない者もあらわれた。湯瀬村肝入直左衛門の『文化十年
御用扣』(
石鳥谷
氏所蔵
)にも、文化一〇年三月の伊勢参宮にかこつけて、無始末で他領へ出ないようにとの被仰出
が書留められている。
このように、百姓が村を離れることは厳しく禁じられていた。