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た。代官は大局的には北家の主張を認めたが、これに対し桜庭家は次のように反論した
明暦三年(一六五七)桜庭兵助と赤尾又兵衛が各々毛馬内・大湯に知行地を与えられ、両家立合で境を見分し
ている。しかしその山々は余りに広大で、宝永元年(一七〇四)藩境添の山々は御山奉行に返上したが、その他
の山林の内七七カ山の御立林については、桜庭家で管理し諸役を上納している。従ってその中に含まれる大湯=
は、毛馬内・大湯の百姓共が入会山として自由に草木を苅取ってきたものである。然るに正徳
一七一
~一六
)の頃
稲
から、春木伐りやはさ(
)道具などの伐採まで大湯百姓に咎められ、近来は春木伐りの山入りも出来ないでい
架
る。大湯山は古来からの入会山であるから、領境を先規の通り定めて再び草刈争論の起こらないようにしてもら
いたい、としている。
藩からは沙汰がなく、桜庭・北家相互に和解を進めたものと思われる。
文化五年(一八〇八)には、北領の多い蟹沢村・中野村と、桜庭領の多い芦名沢村の間で入会紛争が起こった。
これに対して次の裁決が出されている。
○赤坂長根△うるい長根
○葛堀長根△午の頭
○黒森△橋落
○丑通△高森
右八ケ山文化五年草刈論争にて三ケ村入合御裁許仰出られ、蟹沢村、中野村、芦名沢村三ケ村へ御書付ニテ仰渡さる
〇四ケ山は大湯と嶺分御領、△四ケ処は芦名沢内山也
〔伊藤良三編『毛馬内郷土史資料・旧藩時代の部』