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前書の通り七月廿六日より同晦日迄双方より立合、草苅場所山分けいたし、双方肝入老名和談に相成り、無難に苅取

相済申候。尤草苅取之次第は、前日山分け場所翌日苅取らせ申候。

右山分け懸り、湯瀬村肝入直左衛門、相坂領肝入六日町久右衛門、毛馬内肝入忠右衛門代り忠助、桜庭領肝入五郎兵衛、

右人数日々山分けいたし候。双方惣御村肝入老名江内談に及び、徳心之上にて両御下役中江申上候て、右御場所双方

江草苅取らせ申候。

こうして入会山山境の裁定がないまま、妥結に至ったのである。

松山・大欠の入会紛争

暑永元年(一八四八)五月には、松山村・大欠村間で紛争が起こっている。この争

浦は、弘化三年(一八四六)六月二九日、大欠村の百姓数名が生手沢の内上館・下

館へ草苅に行った所、松山村の百姓に咎められ乱暴された事が発端である。

大欠村の主張は、上館・下館は文化一〇年の話合によって両村の入会山であるとし、これに対し松山村は、そ

れは松山・大欠の小境まで決定したものではなく、上館・下館は往古より松山村の内山であると反論した。

米代川の治水が定着するにつれ、川添の大欠村は肥沃な土壌と相俟って発展し、安定した生産をあげていた。

しかし生産高に比し、馬の飼育頭数はごく少ない。安永九年(一七八〇)『邦内郷村志』には次のようにある。

松山村高百八十三石一斗余給地四石七斗余

馬百十四疋民戸六十二軒

大欠村高二百十八石九斗余桜庭肥後采地

馬四十八疋民戸十軒