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いる(

前

)。

小平、小枝指村御本田用水、草木領阿そう内沢より水貫用来ル訳立候間、先年之通用い申可く候。此已後水論仕り間

敷候。尤中村忠右衛門新田百姓共へ申渡候。已上

享保八年卯九月七日藤根六郎次〓

藤根六郎次判

関与九郎判

小平村肝入方

小枝指村御百姓共

この時、草木村中村忠右衛門領の新田百姓の言分は認められなかった。明和五年の水論の結果は記録されてい

ないが、裁定の証文を所持する小平村等の勝訴となったと思われる。その後もこの村々の水不足は解消されなかっ

たとみえ、天保四年(一八三三)の春旱越に見舞われ、旧暦五月二五日まで水がかりがなかったとも記録されて

いる。

このほか米代川添にありながら河底が低く、常時水不足に悩まされた大欠村と、松山村との間に争論があった

が、鹿角は一般に水利に恵まれていた。

三、入会山の管理

鹿角は山間の盆地ではあったが、秣山、炊料山が不足していた。それは元村や新田村の耕地・牛馬の増加や、

加えて銅山で消費する燃料確保のため多くの山林が銅山附となり、炊料山・草刈山は次第に制限をうけたからに

ほかならなかった。従って各村々は入会山については、過敏と思われる程心を用いている(

劵嘉兵衛『奥羽農業経営論』

以下もこの論文に拠る

)。