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(一〇月)

恵美須様刈上げの終った二〇日、豊作を感謝し恵美須様を祭る。商家では盛大に恵美須講を祝った。

(一一月)

〓だいしこ(太子講)四・一四・二四日。宗派にかかわりなく太子様を祭った。小豆粥から始まり小豆飯に終るが、

太子様は子供が多いので二尺余りの茅のはしを添えた。終り太子は必ずといってよい程吹雪となったの

で、これをたいしこ吹きといった。

ーシ講もしともいわれ、一一月から一二月初めにかけて行われる新穀感謝祭である。モーシは豊作を神様に感

謝申上げるの略で、収穫が終ると村の若者達が宿(当番)に集まり、二晩三日飲食を共にし歓をつくす。

若者の生活に秩序と統制を与える機会であり、若者が春木伐りに参加する初山子(元服)の式でもある。

この他いろいろな仲間で行われるモーシもあった。

(一二月)

山の神様山林関係の仕事の家では、山の神様に餅を供え、仕事の安全とその年の事故のなかったことを感謝する。

このすべてが一様に行われたわけではないが、こうした行事を節目として、村の生活が営まれていた。

農作業の目安となった田山暦

藩政時代、鹿角で広く通用した暦に、田山暦があった。この暦は同時に出さ

れためくら経と共に絵判じになっており、文盲の者にも分ることからめくら

暦ともいわれ、農作業の目安として珍重された。

その来暦は古く、初めて出来たのは正徳年間(

一七一一

~一六

)といわれている。版元の田山村八幡家の先祖善八は、

元は平泉寺社取締りの補佐役を勤めた源左衛門という武士であった。元禄年間寺宝盗難の責を一身に負って浅沢

村(

現岩手県

安代町

肝入金沢家に身を寄せ、名を善八と改めた。後田山村肝入八幡家に婿入りし、八幡姓を名乗った。